日本初の角膜コンタクトレンズ誕生の地

日本初のコンタクト誕生の地

メニコンと玉水屋

日本初のコンタクトレンズ誕生の地

 1951年、当時玉水屋に勤務していた田中恭一氏が、米軍将校夫人との出会いをきっかけに、日本で初めての角膜コンタクトレンズを誕生させました。その後、田中恭一氏は株式会社メニコンの創業者となり、現在は株式会社メニコンの会長としてご活躍されています。

 写真は、日本初のコンタクトレンズの開発から50年経った2000年に、玉水屋店頭に据えられた記念プレートです。玉水屋の前を通ることがございましたら、是非一度、この歴史が刻まれたプレートをご覧ください。

〔図:『日本で最初のコンタクトレンズ誕生の地』記念プレート(2000年2月8日完成)〕

中日新聞に紹介されました

「コンタクトレンズ」 半世紀前の開発秘話 プレートで紹介

「日本初のコンタクトレンズ誕生の地」記念プレート

 半世紀前のコンタクトレンズ開発秘話を紹介するユニークな記念プレートが八日、名古屋市中区錦三の老舗(しにせ)眼鏡店「玉水屋」の店頭にお目見えした。同レンズメーカー・メニコン(同市中区)の田中恭一社長の若き日のセピア色写真が刷り込まれている。

 銅板製プレートは縦六十八センチ、横六十三センチ。一九五〇年当時の写真には、眼鏡店員だった田中さんと、顧客の米国人将校夫人が二人で並ぶ。夫人から聞いた欧米のコンタクトレンズの話を機に、現在の角膜レンズの研究を決意。その後、開発に成功したという。

 除幕を終えた田中社長は「貴重な思い出の一枚なので、うれしい。今後は老眼用のレンズ開発を」と五十年前の自分の姿を見て決意を新たにしていた。

〔中日新聞2000年2月9日掲載記事より〕

『日本で最初のコンタクトレンズ誕生の地』記念碑除幕式

「コンタクトレンズ」半世紀前の開発秘話 プレートで紹介

『日本で最初のコンタクトレンズ誕生の地』記念碑除幕式の様子

とき:2000年2月8日午前11時から11時40分まで/ところ:名古屋市中区錦3-24-12 メガネの玉水屋

(右:株式会社メニコン会長の田中恭一氏/左:株式会社玉水屋社長の津田節哉)

除幕式の様子1

除幕式の様子2

除幕式の様子3

 当日はたくさんの関係者やテレビ、ラジオ、新聞各社の報道陣にご来場頂き、大津通りは大変な賑わいを見せました。お忙しい中ご来場頂きました皆様方に、厚く御礼申し上げます。

朝日新聞『宝物語り』に紹介されました

「コンタクトレンズ」~半世紀前の開発秘話~プレートで紹介

『宝物語り』-コンタクトレンズ第1号(朝日新聞2011年8月21日朝刊経済面)に紹介されたメニコンと玉水屋

コンタクトレンズ第1号~「それ見せて」拒まれ奮起

 コンタクトレンズ大手のメニコン。岐阜県各務原市にある技術研究所に、日本で商品化されたコンタクトレンズの第1号が保存されている。

 創業者の田中恭一会長がこのレンズの商品化に初めて成功したのは、1953年、21歳のとき。きっかけは、当時つとめていた名古屋市の眼鏡店「玉水屋」を訪れた米軍将校夫人の言葉だった。

 「コンタクトレンズを持っている」。見せてほしいと頼んだが、拒否された。眼鏡のフレームに合わせてレンズを加工していた田中さんは「それなら自分で作る」と一念発起。試作品をつくっては、自ら実験台となり装着。自転車に乗った時の風圧による影響や水中でのつけ具合を調べ、実用化にこぎつけた。

 「コンタクトレンズを見せてもらっていたら、自作せず、眼鏡店主になっていたかもしれません」とメニコン広報。今も営業している玉水屋の店頭には、「コンタクトレンズ誕生の地」の記念板が掲げられている。 (奈良部健)

(図版解説) 直径約11ミリ、厚さ約0.1ミリ。発売当時、高卒の初任給は4600円に対し、レンズは8000円した。かつて開発のきっかけをつくった米軍将校夫人を、米国で捜してみたが、見つからなかったという。

〔図=『コンタクトレンズ第1号』(朝日新聞2011年8月21日朝刊-東海経済)より〕


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是非、玉水屋電子資料館「お客様は進駐軍」 をご覧ください。