お客様は進駐軍|玉水屋電子資料館

お客様は進駐軍

ギブミーア…

戦後玉水屋を訪れた進駐軍

 戦後の進駐軍もまた、眼鏡を購入するために玉水屋へやって来ました。言葉の壁こそあったものの、英語で書かれた眼鏡処方箋(ドクターによる、眼鏡を作る際の度数などを記した指示書)はほぼ共通で、玉水屋はこれに基づいた正確な眼鏡調製をすることができました。

〔写真=戦後眼鏡を購入するため玉水屋を訪れた進駐軍兵士〕

処方箋

〔写真=進駐軍USAF病院発行の眼鏡処方箋〕

 進駐軍がもたらした眼鏡処方箋一枚の中にも、これからの時代には国際化や標準化が必要であることが見てとれます。玉水屋八代目がその後アメリカへ渡り、ドクター オブ オプトメトリーの資格を得るに至るまでの重要な契機ともなりました。

 そしてもう一つ、進駐軍と玉水屋の関係で忘れられないエピソードがあります。それは、玉水屋を舞台に繰り広げられました…。

玉水屋を訪れた進駐軍将校

玉水屋を訪れた進駐軍将校夫人

玉水屋を訪れた進駐軍将校夫人

〔写真=玉水屋を訪れた進駐軍将校と将校夫人〕


青い瞳の上に隠されたヒミツ

ショウミーア…

進駐軍将校夫人と株式会社メニコン会長の田中恭一氏

 1951年、当時玉水屋に勤務していた田中恭一氏(当時19歳)が、米軍将校夫人との出会いをきっかけに、日本で初めての角膜コンタクトレンズを誕生させました。

誕生秘話~玉水屋店内にて
米軍将校夫人:「私、コンタクトレンズを持っているのよ。」
田中恭一氏:「なにそれっ!? ちょっと見せてョ!」
米軍将校夫人:「だめっ! と~っても大事なものなんだから!」
田中恭一氏:「お願いだから、ちょっとだけ…」
米軍将校夫人:「だめよ~、だめだめっ!」
田中恭一氏:「よしっ! それなら自分で作っちゃうぞっ!」

…当時、だいたいこんなやりとりがあったそうです。


tamamizuya

「コンタクトレンズを見せてもらっていたら、自作せず、眼鏡店主になっていたかもしれません」とメニコンの広報さん。今も営業している玉水屋の店頭には、「コンタクトレンズ誕生の地」の記念板が掲げられています。お立ち寄りの際は、是非玉水ビル正面の外壁に据えられた記念プレートをご覧ください。

トピックス「日本初の角膜コンタクトレンズ誕生の地」

株式会社メニコン会長の田中恭一氏

〔写真=株式会社メニコン会長の田中恭一氏(中央)が当時の様子や日本初の角膜コンタクトレンズ開発秘話を語ってくれました。(2013年10月12日(土)玉水ビル2階のギャラリータマミジアムにて)〕