玉水屋トピックス-05
中部経済新聞の連載記事『老舗探訪-東海企業ウォッチング』(2011年3月8日刊)に、玉水屋がとり上げられました。
『老舗探訪-東海企業ウォッチング』に掲載された記事をご紹介します。

〔図版=『中部経済新聞』老舗探訪-東海企業ウォッチング(2011年3月8日刊)より〕
舶来品商いから眼鏡特化 玉水屋 一七五一年創業 名古屋市

手持ち式や折りたたみ式。見るからに「舶来品」の風格が漂う眼鏡の数々。創業260周年を迎えた老舗眼鏡専門店「玉水屋」が所蔵する明治〜大正時代の眼鏡類だ。
玉水屋の初代・千歳屋佐兵衛は江戸時代、交易商人として、南蛮貿易が盛んだった長崎と名古屋の間を往復。珍しい舶来品を次々に買い付けたという。
いま、国内有数の眼鏡産地といえば福井だが、江戸初期に生産地として成長したのは長崎だった。誰もが気軽に眼鏡をかけられる今日とは異なり、当時、眼鏡は限られた富裕層の所持品だった。
そもそもは、佐兵衛が京都から名古屋に移り住み、1751年に店を開いたのが創業。家業として店を運営する傍ら、名古屋の豪商といわれた「水口屋」で交易係として働き、長崎との往復を重ねつつ進んだ西洋の技術に関心を募らせていく。
1817年、店の3代目の時代に「玉水屋」として独立。店舗は現在の名古屋市本町に位置していた。当初は袋物や宝飾品まで全般的に扱っていたが、明治に入り、眼鏡を専門に扱う業態に転換。現在、本社を置く栄交差点に近い場所に移ったのが、1925年のことだ。
ハイカラが流行していた当時、店長だった岡田銀一は東京・銀座の店に学び、眼鏡を立体的に陳列する、“銀座スタイル”の斬新なディスプレイを採用したとされてる。
〔図版=玉水屋が所蔵する明治〜大正初期の眼鏡類〕
日本初のコンタクトレンズ誕生の地 メニコン創業者が修行積む

栄交差点角に位置する玉水屋の店舗前。「日本で最初のコンタクトレンズ誕生の地」という看板が目に付く。実は、メニコン創業者で現会長の田中恭一氏が終戦直後、玉水屋で修行をしていたという。
朝鮮戦争がぼっ発した1950年、在日米軍の間で眼鏡や双眼鏡の需要が増加。名古屋市役所近くの病院を専用に使用していた米軍大佐が名古屋中の眼鏡店を調査し、白羽の矢が立ったのが玉水屋だった。技術レベルが高く、研究熱心だった田中氏は、進駐軍の将校夫人からコンタクトレンズの話を聞き「日本でもコンタクトレンズを作れないか」と、独立を決断。日本にコンタクトレンズを浸透させる先駆けとなった。
現社長の津田節哉氏も田中氏と同じく、アメリカの進んだ制度に感銘を受けたうちの1人。69年に単独でロサンゼルスに渡り、日本で3人目となるオプトメトリスト(眼鏡学博士)の資格を取得している。
〔図版=メニコン創業者の田中恭一氏(左)と玉水屋7代目津田庄三郎(店頭で)〕
価格競争にとらわれず専門家のサービス提供 8代目津田節哉さん

現在の眼鏡市場は低価格を売りにしたチェーン店が席巻し、中小専門店を取り巻く環境は厳しくなっています。
そうした中で260年以上商売を続けてきた当社が大切にしてきたのは、価格競争にとらわれず、専門知識を持つオプトメトリストが直接視力相談を行い、1人1人の視力に合った眼鏡を提供するという基本です。確実にサービスが行き届くよう、支店は置きません。
眼鏡はれっきとした医療用具。眼鏡店を訪れた方が、そこで初めて目の病気を見つける場合もあります。アメリカでは眼科医と国が認定した検眼士、眼鏡を調製する専門家に役割が分かれ、技術料と商品代金は別に請求されますが、日本では眼鏡を調整する技術者に資格制度がありません。
私は、日本も早急に眼鏡学博士を国家資格に格上げし、業界内で専門家を輩出できる環境を整えることが必要と提唱しています。