『200年企業-成長と持続の条件』(日本経済新聞)|メガネの玉水屋

玉水屋トピックス-04

日本経済新聞の連載記事『200年企業-成長と持続の条件』(2010年10月20日朝刊)に、玉水屋がとり上げられました。

日本経済新聞に玉水屋が紹介されました。

『200年企業-成長と持続の条件』に掲載された記事をご紹介します。

日本経済新聞の連載記事『200年企業-成長と持続の条件』(2010年10月20日朝刊)に掲載された玉水屋。

〔図版=『日本経済新聞』200年企業-成長と持続の条件(2010年10月20日朝刊)より〕


技術維持、一店主義貫く

 日本に眼鏡を初めて伝えたのは、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルといわれる。周防(現在の山口県)の大名、大内義隆に献上した1551年ころのことだ。それから200年後の1751年、眼鏡専門店の玉水屋(名古屋市、津田節哉社長)が創業した。


 京都から名古屋に移住し、小間物を扱う小さな店を開いたのが初代の千歳屋佐兵衛。家業を営むかたわら、やがて名古屋の豪商、水口屋にその商才を見込まれ、交易係として働くようになる。西洋文化の窓口である長崎と名古屋を往復し、眼鏡など珍しい舶来品があれば買い付け、水口屋に送るのが仕事だった。


 水口屋での勤勉な働きが認められた3代目の庄三郎は1817年、玉水屋として独立。きんちゃくや、たばこ入れなど袋物といわれる商品の販売を手掛ける店を構えた。いまでいえば、ハンドバッグやアクセサリーを扱う、時代の先頭を走るブティックだ。眼鏡を本格的に取り扱うようになったのは明治期に入ってからのことである。


 「だて眼鏡」という言葉が生まれたように、明治期には、眼鏡は装飾品としての価値も認められ、市場は拡大。玉水屋は多くの眼科医の指定店となり、経営基盤を固めていく。大正期には一時、レンズの生産も手掛けるほど、商売は繁盛していった。


 中区・錦の本社は日本のコンタクトレンズ発祥の地でもある。メニコン創業者の田中恭一氏(現会長)が玉水屋の店員として入社したのは終戦直後の1946年。手先の器用な田中氏が、顧客の骨格に合わせてデザインしたフレーム・眼鏡は飛ぶように売れた。


 あるとき、進駐軍の将校夫人からコンタクトレンズの話を聞かされた田中氏は自分で作ることを決意。試作品を自分の眼球に装着するなどの実験を繰り返し、51年に開発に成功した。その後、田中氏は独立したが「、コンタクト誕生のふ化器の役目を果たしたとして玉水屋の評判は上がった。


 現在、日本の眼鏡市場はディスカウントチェーンが席巻し個人商店や中小は淘汰を余儀なくされている。販売単価の下落で市場は縮小。それでも異業種から参入が相次ぐのは、中国や韓国から輸入したフレーム、レンズの原価はなお安く、多店舗展開で規模のメリットを享受できるからだ。8代目当主の津田社長は安売り路線と一線を画す。


 玉水屋の店舗は本社ビル1店のみ。津田社長は「支店には店主の目が届かず、検眼など十分なサービスができない」と考えている。専門知識と技術を持つ人に、日本眼鏡技術者協会が与える「認定眼鏡士」3人を抱え、最適なレンズを探すため、視力検査に30分以上をかけることもある。技術料として反映され、販売単価は約3万円と高めになる。


 津田社長の信条を支えているのは69年から6年におよぶ留学体験だ。米国の大学で光学や眼病理学などを学び、当時、日本人で3人目となる眼鏡学博士の資格を取得した。大手チェーン店では、知識や経験に乏しい店員が消費者の安全について十分に考えず、販売しているのが実情という。こんな現実を前に、津田社長は認定眼鏡士を国家資格に格上げするよう厚生労働省などに働きかけている。


 玉水屋の経営の底流に流れているのは進取の気性と、愚直なまでのきまじめさだろう。足元の業績はかろうじて黒字だが、今後、収益環境は一段の悪化が予想される。新たな対応を迫られる場面もありそうだ。

(神戸支局長 宮崎義夫)


図版=長崎奉行所からの依頼状

 現在、眼鏡の国内最大の産地は福井県だが、江戸初期は長崎が有力な産地だった。出島のオランダ商館を通じて舶来物が入り、全国の大名ら有力者に献上された。地元のべっ甲職人も模倣して製作し、やがて全国に製法は広がっていった。写真は1825年、長崎奉行所から玉水屋3代目にあてた書状の一部。清との貿易に絡んで、出張を要請する文面という。


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